令和2年12月 合気道4段昇段試験に臨んで
平成14年の夏に健康の為にと家内と始めた合気道ですが、稽古を重ねる内に偶には少し分かったつもりになることもあったりして、段々と生活の中における合気道の比重が高くなっていました。以来長年に渡ってご指導いただく先生方並びに道場の稽古仲間の皆様のお世話になって、いつの間にか古希を超えていました。
幸徳会修養塾は基本技を中心とし、“稽古は鍛錬である”と合気道の体つくりも考えた練習をして頂いております。同時に“円相の流れに沿った無理のない技”を繰り返し指導頂き、それが出来るようになれば長く合気道を続けることができると鼓舞されて稽古を続けています。
ところで、段々と上に上がるにつけ人の見る目も変わり、と同時に自分の責任もそれまでとは同じではなくなりますので、一層稽古に励まなければと思っている次第です。
また、折角教わってきた合気道ですから、自分の為だけでなく、何かに他にも役立てることが出来ないものか、そうなれば多少なりとも身に着けたと言えるのではないかと考えます。
道場では、合気道を始めようと訪ねてくる初心者の方に合気道の楽しさを知ってもらい、道場の仲間と楽しく稽古に取り組む手伝い等も出来れば思っています。
こうしたことを考えながら、この機会に指導頂いてきた基本的所作等を振り返り、ともすると我流に陥りがちな自らの稽古に臨む戒めにしたいとパソコンに向かいました。
道場の仲間と怪我もなく充実した稽古ができることが一番ですが、自身では自然で無駄のない美しい合気道を目指して稽古を続けたいと考えています。
1、姿勢のこと
武士道に由来する小笠原流礼法等に見られる美しい立ち居振る舞いは、袴を着けて稽古する合気道にも通じるところがあると思いますが、私も稽古で中心が定まった美しい姿勢を保つことができる様になりたいと思っています。
偶々NHKの新日本紀行で春日大社の若い巫女さん達が“巫女舞の稽古”をする場面がありました。若い巫女さん達は、より美しく舞いたいと手首を曲げたり、手の位置を変えたり工夫をしますが、途端に先輩巫女さんの指導が入ります。春日大社ですから1200年以上の歴史をかけ“自然で無駄のない巫女舞”が出来上がったものと思います。若い巫女さん達も稽古の積み重ねで、いつかそれを悟る様になると説明をされていました。
私は入身転換等でつい前かがみになる悪い癖を度々指摘され反省していますが、自分の姿は他の人に指摘して頂かないことにはなかなか分らないものです。体に染みた悪癖を直すのは大変で、相当な稽古の積み重ねしかないですね。きちんとした体裁きと足の運びで姿勢が崩れないよう稽古で身に着けたいと思います。
余談ですが、家内に勧められて読んでいる“鬼滅の刃”は現在16巻まできましたが、その冒頭に、「最も重要なのは体の中心・・・足腰である。強靭な足腰で体を安定させることは正確な攻撃と崩れぬ防御へと繋がる」との台詞がありましたので書き留めました。
2.稽古のこと
合気道は型稽古の連続ですが、いくら形を覚えても馴合いでいるといざと云う時には役に立たないものですね。稽古は上級者・初心者、体の大きな人・小さい人、力の強い人・弱い人、男性・女性と相手も様々ですが、先生はどなたと組んで全く同じように技をかけられます。
背の低い人と組む場合等でも、よく見ると先生と相手の方の顔の高さがあまり変わりません。きわめて自然に見える為に言われてみないとなかなか気付かないものです。行うは難しですが、相手に合わせて稽古する姿勢は学んで行きたいと思います。
また、武道は、“間合いと残心が大切”と言われます。間合いは相手の方との距離のことで何となく分かりますが、残心は分かったようで分からないので調べてみると、“一つの技が終わって力は抜いても相手や技に意識を払い続けること、残心は日本の美意識である”と書かれており何となく納得しました。
家内の独り言ではありますが「先生の技はワーっと体が持上げられる、トルネードみたい・・」と良く言います。皆さんも感じていると思いますが、先生の技は中心に巻込まれたり、遠心力で外に投げられる様な気がします。また、時には受けをとって頂きますが、その受けもぐいぐい相手の中心に向かい、少しでも遅れをとるといつのまにか立場が逆転しています。要は、取りも受けもお互い気を合わせて切磋琢磨することが良い稽古に繋がっていくものと思います。
稽古で「手を引っ張るな」「居つかないで」とよく指導されます。「次にくる技を予測して受けをとる」とも教っていますが、実際は技の中でお互いが攻防をしているわけで、形を覚えるだけでなくきちんと受けをとる稽古も実に大切です。
更に、稽古では表裏左右と一つの技で4回の動作があります。その一連の4つの技が終わるまで相手としっかりと気を繋ぐことも、鍛錬にもなり良い稽古に繋がると思い心掛けています。
3、技のこと
師範演武を拝見すると、間合い等その時々の状況によって自然に技を出されます。演武ですから多少は事前打合せもあると思いますが、いざとなると状況に応じて違う技に入ったりされているようです。そこにまで行きつくのは至難で相当の時間も掛かります。
私には、きちんとした技が出せる様になる為に、技の前に心掛けておくべきことがある様に考えていますので、そのことについて2点を書き添えました。
・久し振りに剣杖の稽古をやり、剣杖の稽古は当身と体裁きを練習するのに大変有効であると思いました。いざやってみると、先に剣杖を掴みにかかるもので、手がバタバタとみっともない動きになります。技を掛ける前に、まず体裁きや当身で受けを裁き、一呼吸を置いてから技をかける余裕が実に大事と反省しています。
・また、“指は真っ直ぐ伸ばし、親指を立てて始動し、小指から上げる。腕を上げる場合は腕全体を張って指の動きに連れて肘が少し前に出る動きが大事”と教わっています。細かい所作ですが、この動作は実にあらゆる技に通じているものでしっかりと身に着けたいものです。
思い切り手の指を開く動作は、気を出す上でも重要な動作と考えています。まだ他にも沢山やるべきことがあるとは思いますが、まずは気を出しきちんと体裁きをして技に入る態勢をとること、そうすることで技が楽に出せる様になるのではと考えています。
最後に、合気道は争わない武道とか和合の道とか言われます。日頃は技の練習にばかり熱中して、心の修練までにはなかなか意識が行かないものですが、合気道を通して精神的な部分も学んで行きたいものと考えています。気を通じることは“心が通う”ことにも通じますので、合気道は日常生活にも様々と生かせる武道であると思います。
幸徳会の合気道談義で先生が新渡戸稲造の「武士道」を紹介されていますが、それは侍が去った明治時代に武士の道徳・作法を伝える「武士道」を継承するもので、その後の日本人の精神性にも大きな影響を残しています。
英語で出版されたこの本は、セオドア・ルーズベルト大統領が大変な感銘を受けて、我が子だけでなく上下両院の議員にも「この高尚な武士道の思想は我々アメリカ人も学ぶべきである」と読ませたそうです。
この新渡戸稲造が後に“これからの日本を背負う若者に”と残された本が「修養」です。幸徳会修養塾の“修養”ですね。調べると“修養とは知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成に努めること”と書かれています。
その意味と修養塾と命名された先生の思いも考えながら、これから先も長く合気道を続け、その合気道を通じて得るものを何か他の事にも役に立てることが出来ないものかと考えています。一朝一夕にはできませんが、少しでも長く稽古に励んでいきたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
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