新年明けましておめでとうございます。皆様にとって本年が実り多い年となりますようお祈り申し上げます。
私は稽古は課題を持って取り組むことが必要と皆様に申しておりますが、それでは私が今課題としていることが何なのかと言うことについて、新年に向けて少しお話したいと思います。
毎年、本部道場の鏡開き式の前日の土曜日に京王プラザホテルで賀詞交歓会が行なわれます。一昨年前のその席上である政治家の方が年初挨拶をされた折、武術は殺し合いの中から生まれた術であり~云々、と話されたことが妙に頭からは離れませんでした。
私の心の中には違和感が広がりましたが、それに対して反論できないということに腹立たしさを覚え、これが今でも心の片隅でくすぶり続けています。
何を言いたいのかというと、開祖が「人類世界の和合への道」と言われた合気道のその生まれた根源にあるものは、柔術、剣術と一般に武術と称されるものであり、これはまさしく殺し合いの術として生まれたものであるという事実。
合気道が人を活かす為の道であると言うことは、これまで学んで来た者にとって疑いようのないことであると思いつつも、その正反対の人を殺す為の術とどういう関係で一致してくるのかということについて、明確な解を持ち合わせていないということへのわだかまりなのです。いったいこの人を殺す術として生まれてきたものから、どうやって人を活かす道に成り得ることになるのでしょうか。
この大命題に対する答えとして、開祖は人を生かす道として合気道を体現されたわけですから、それに向かって我々も稽古をしなければならないわけです。
私の恩師は、数少ない雑誌のインタビューでこのようなことを言われています。術と理を通して技を学ぶこと。
術理がわかればそれは真実だから、ごまかしではない。そして術と理の奥には心があると。稽古とは古(いにしえ)を稽(かんが)えるということだから、稽古によって先人と繋がってくる。開祖と繋がってくる。そして合気道の精神的意義に裏付けされる道に繋がってくるのだと。
言い換えれば、そういう稽古をしないと合気道ではないということを言われたのだと思います。
この非常に深く深遠な世界、人の道というものの根源に通じるものであると感じられるからこそ、合気道を長く続けて行こうとされる方が多いのだと思います。
ずっとこのくすぶり続けている気持ちを持ちながら、昨年ひとつの本に出会いました。「剣と禅」(著者:大森曹玄)と言う本です。この著者の大森曹玄という方は、明治から平成にかけて生きた方で、禅宗の住職でありながら、直心影流剣術を学ばれた方です。この本は、このようなくだりから始まります。
「剣禅一如などという言葉がある。しかし、人殺しの術である剣と人を活かす道である禅とが、果たして一致するかどうかということは、厳密に考えればそう簡単に結論の出せる問題ではない。」
合気道も「動く禅」と言われることがあります。何をもって合気道が動く禅なのでしょうか。人ごとのように合気道とは何かということを紹介することはできますが、実はわかっていない。わかるということは、これを体現できるということでしょう。
「剣と禅」という本を読んで感ずるのは、著者も同じような悩みを長年抱えられて、これにこの方の深い探求と洞察を加えられ、これに対する一つの方向性を導き出しておられる点です。一見控えめな表現ではありますが、この難問に正面から対峙される生き様のようなものを感じずにはいられません。
これを解き明かすヒントとして凡人の私でもわかりやすく説明された点が何点かありますので、これもご紹介致します。
・剣の道とは生死の一大事につながる重大な業、ないしは道。「剣術とは生死を決するの道」
・「生を明め死を明むるは仏家一大事の因縁なり」(道元禅師)
・(剣も禅も)両者とも死の恐れ、生への不安からいかにして脱出するか、というところから生まれ、または
その線に添って発達してきたと考えられる。
・両者とも人間のいのちそのものを真剣にみつめて、その根源へ根源へと掘り下げてきたものである。
ここでなんとなくわかってくるのは、開祖だけでなく、剣豪と言われた上泉伊勢守、塚原ト伝から山岡鉄舟、榊原鍵吉に至るまでの日本剣道史に名を連ねる先人達も、剣術、武術の中から何かを体現されるに至ったということであります。
誰にも教えられず、自分自身で自らを考えたずねた結果だからこそ、はじめてわかってくるものなのだと思うと、まだまだ上る山の頂上が見えてきません。
しかしながら、先人の方々の残されたもののすべてにそのヒントがあり、これを手がかりとして進むべき方向は見えているわけであります。
私の持つ課題に対する答えはそう簡単ではないにせよ、色々なものに触れて自分の中で納得のできる答えが出せるよう今年も合気道とともに歩みたいと思っております。
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